さて、今年のサンクスギビングは、朝一番に、このホリデイを父親側で過ごすお猿をフレッドの手に渡す事から始まった。
先週彼女には、このサンクスギビングのパーティーで着る赤いベルベッドのドレスを買ってあげた。そしてそれから暫くの間、その小さなドレスは入り口のハンガーに掛けておいた。
お猿はもう、それが自分の物だと知っていて、毎日ドレスの前に立ってそれをジーッと眺めては、指を指したり手を叩いたり‥。
今日、お迎えの朝、彼女は初めてのドレスに手を通した。それはもうとてもとても喜んで、何時までもその柔らかなスカートの裾をヒラヒラ翻しては遊んでいた。
『あんなに小さいのに、もうちゃんと女の子してるんだ。』
今までちっぽけなベビーでしかなかったお猿が、初めてのドレスに頬をピンクに染めてはしゃぐ姿を見ながら、一瞬、嬉しいような、でも私だけが時間の中に取り残されて行くような、きゅんとした思いが胸の中を通り抜けた。
フレッドが到着すると、おろし立てのドレスを身に纏い、彼女はカーシートの中で幸せそうに微笑みながらパーティーへと出発した。
アパートメントの先の角を曲る車を見送りながら、ドアを閉める時に見た、お猿の笑顔と赤いベルベットのドレスが目の前に浮かぶ。
優しい気持ちが身体いっぱいに満ちて来た。
ママとして、ちゃんと用意を整えて彼女を送り出してあげられた事が、何だかとても嬉しかった。あのちっぽけな存在を守って行く『母親』という役目が自分の人生の中に与えられた事に、小さな誇らしさを感じた。
見送りを終えて部屋に戻ると、ドアの中には、ついさっきまで彼女が遊んでいた痕跡が散乱して残っていた。何かが急にスポンと抜け落ちたような思いに、胃の奥でキュッと冷たい淋しさがはじけた。
しかし今は、そんなおセンチに浸っている時ではない。
そこら中に散らばった玩具たちを、片っ端から手につかんでは大きな木の箱に投げ入れて行く。脱がっせっぱなしに床に放っておいた小さなネグリジェを洗濯かごに放り込み、彼女が食べ散らかした後をきれいに拭き取って行き‥。そうしてお迎え前の準備でバタバタ忙しかった残影がきれいに片付いてしまう頃には、私のおセンチな気分もすっかり吹き飛んでしまっていた。
さて、部屋が綺麗に片付いた後は、ジャケットを引っつかみアパートメントのドアを出た。
「ああ、今日もいい天気だ!」
エントランスのドアを開けるなり眩しく目に飛び込んで来た陽射しに、ポケットのサングラスをさぐる。
頭の上には雲一つ無く、どこまでも澄み渡った青空が続いている。
取り出したサングラスをチョンと鼻にのせ,大きく息を吸い込むと、吹き抜けていく爽やかな風を感じながら通りに足を踏み出した。
毎日お猿のデイケアに通うカリフォルニアストリートの坂を少し登ると、日本人の初老のゲイのカップルが開いている品のいいフラワーショップがある。アジア情緒あふれる花たちで埋まった深草色のエントランスホールが、サンフランシスコの一角に、控えめでほっとする和の趣を添えている。
しかし、そんな落ち着いた店の雰囲気とは対照的に、表の看板の隣には、虹色のポーダーが入る大きなゲイの旗が誇らしげに掛けてある。
今日のお店番は、小柄な方のご主人だった。
「本当を言うと、今日は祭日で店を閉めようと思っていたんだけどねえ‥。サンクスギビングのお花の注文がいくつか入っちゃったので店を開ける事にしたんですよ。」
京都のアクセントが少し混じった柔らかな口調で微笑みながら、サンフランシスコで目にするのは珍しい、鮮やかな朱色のほおずきと菊で花束を作ってくれた。
夕方には何と、クリスの家族のサンクスギビングディナーにおよばれしている。実は今こうして作ってもらっている花束も、彼のお母さんへ持って行くプレゼントなのだ。
前回、夏のサルサリートのセーリングで彼のファミリーの中に突然放り込まれてしまった時は、まるで行き当たりばったりのピアノの発表会のステージで演奏を強要されたような気分だった。今回はその汚名を返上すべく、朝からこうして用意万端、気持ちの準備を整えて事に臨んでいる次第である。
窓から見える空が少しずつ一日の終わり色に染まり始めた頃、クリスのお迎えを告げるインターフォンが鳴った。
いつものようにさっとバスルームに駆け込んで、全身の姿をチェックをする。
鏡の中には今夜のおよばれを意識した、普段とは全く違う顔の自分が立っていた。
きちんとまとめた髪にかっちりととした黒のパンツスーツ。
何だか他人を見ているようだ。
おまけにまた、このダブルシックの大きな花束。
『ちょっとやリ過ぎかなあ?』
今までクリスの前ではしたことがない格好。
『いったいこんな私の姿を見て、彼はどんな風に思うのだろう?』
そう考えると、ほんの少しの不安が胸に走った。
しかし、今となってはもうゆっくり着替えなどしている暇はない。ドキドキしながらエレベーターに乗り込みエントランスまでおりて行くと、いつものように、クリスが車の横に立って待っていてくれるのが見えた。
私の姿を確認すると、クリスは少し言葉に間を置いて、それからにっこり微笑みながら花束ごとすっぽり私の身体を抱き締めてくれた。
'You look gorgeous! sweetheart.'
今ではもう、何度となく通り慣れたゴールデンゲート・ブリッジ。
この巨大な橋を渡るたびに、幸福な何かが私を待っていてくれるような気がする。
車がブリッジに差し掛かる。
鮮やかな朱色をした橋の支柱が、夕暮れの空に向かって吸い込まれていくようにすーっと真っ直ぐ伸びている。
遠くに霞む島影をバックに、湾の中にはヨットの
白い帆が浮かんでいる。
橋の歩道では、スピードを上げて通り過ぎる車を横目に、幸福な観光客たちの笑顔がのんびりと行き交っている。
暮れかかる陽射しの中、海も山も、ブリッジも人の笑顔も‥、そこにある全ての物が、ゆっくりと黄金色に染って行く。
クリスのコンドに到着し、車のドアを開けた途端、辺り一面からもう素晴らしく美味しい匂いの洪水が押し寄せて来た。
あまりに素敵な不意打ちに、一瞬頭がくらくらする。
ターキーの焼けるこうばしい匂いの先導に続きクランベリーの酸っぱいソース、パンプキンパイのクツクツ泡立つ甘い甘い匂い‥。そんな魅惑的な匂いたちが、両手を広げて『早くテーブルにおいでよ』と誘ってくれているようだ。
高い丘の斜面に引っ掛かるようにして建っている家々の窓たちが、今日は一年の収穫を祝う感謝際の喜びに満ち溢れている。
美味しい匂いに鼻をムズムズさせながら玄関に続くデッキを渡って行くと、クリスがさっとドアを開けてくれた。中からうわあっと、息の詰るような汁っぽいターキーの肉汁の匂いが溢れ出す。思わずゴクリと咽が鳴った。
自然に緩んで来てしまう顔を必死で押さえながらドアの中に一歩入ると、部屋の中では、キッチンとダイニングテーブルの間を忙しそうに行き来しているお母さんと、それを邪魔しているのか手伝っているのか、これまたキッチンでごそごそと何かをしているお父さんの姿が見えた。
リビングのソファでは、何だか妙に擦り切れたスエットシャツを着たジェスが、手持ち無沙汰にBGMのCDを選んでいる。
クリスのファミリーは、LAにいるボビーを除いて、皆このティブロンのご近所さんに住んでいる。今年は私がお邪魔をするというので、このサンクスギビングのファミリーディナーはクリスのコンドでやる事になったそうだ。
私達が到着した時には、もうテーブルはお母さんの手料理で一杯に埋まり、部屋中が家族の暖かい空気に包まれていた。
「ママ、ちょっと遅れちゃって‥。手伝えなくてごめん。」
玄関のドアを入りながら、ひょいとキッチンの入り口に顔を突っ込み『ただいま』の挨拶を告げた後、クリスは持って来た大きな花束をリビングのガラステーブルの上に優しく置いた。
「花瓶あったかなあ?」
それから少し間を置いて、キッチンからお母さんが真っ白な陶器の花瓶を持って出て来た。そしてクリスの横に恥ずかしそうに立っている私の姿に気がつくと、にっこりと微笑んで挨拶をくれた。
「これ、私のアパートメントの近くにある日本人がしているフラワーショップで作ってもらったんです。」
「まあ、ありがとう。何てユニークな花束なの。」
そう言って花束を手に取りながら、お母さんは、そのツンと上品に尖った鼻で菊の匂いを嗅いだ。期待通りに、不思議な形をした鮮やかな朱色のほおずきを、彼女はとても気に入ってくれた様子だった。
花束を開いてその形を一本一本楽しむように手に取りながら、透き通るように白い円筒形の花瓶に活けて行く。ふっくらとした手が暖かい。
その手の動きに、活け花をする日本の母親の姿が重なった。
今頃どうしているのだろう。会いたいな‥。
部屋の中にはもう、バーカウンター越しに漏れるキッチンの明かりと、大窓から入って来る陽の落ち時の弱い光だけしかなくなった。その薄暗くくすんだ空間の中で、暖炉の火だけがパチパチ小さな音をたてながら優しく揺らめいている。
ディナーの用意が整うと、クリスは暖炉のマントルピースの上から磨き込まれたランプを一つ手に取った。
テーブルの上には、まだ湯気のたっているターキー、ポテト、とうもろこし、ベリー類のお皿‥、アメリカでとれる限りの大地の恵みが集合して私達が席につくのを待っている。
ふあんとオイルの匂いが鼻をかすめ、テーブルの真ん中にポッと優しい灯が揺れ始めると、同時にキッチンのライトが消えた。
厳かな光の中で、サンクスギビングのディナーは始まった。
皆がテーブルに揃うと、早速お父さんは、テーブルの真ん中にどんと置かれたこんがり狐色のターキーを、慣れた手付きで全員のお皿に切り分けてくれた。
「うちのレシピの秘密はね、ターキーを焼く時には胸から焼いて、途中ひっくり返すのがコツなのよ。」
得意な顔でそう言いながら、お母さんが私にウインクをくれる。
アメリカでこのターキーの焼き方というのは、各々の家庭が独自の『コツ』を持っているのだそうだ。日本で代々家族に受け継がれて行く、おせち料理のお雑煮のような物だろう。
そう説明してくれるお母さんの顔が、彼女のお母さん、お婆さん、時代を越えて受け継がれて来たファミリーの味へのプライドに溢れている。
「そうすると、肉汁が逃げないでお腹の詰め物にしみ込んで行くでしょう?そしてまた、ひっくり返した後にお汁が胸の方に落ちて行くから、胸の部分もパサパサしないで焼き上がるのよ。」
確かにもうこれは彼女の言う通り!
一口ターキーを口に入れてその弾力のある肉を噛んでみた途端、歯の間から口の中に、何とも言えない暖かくてジューシーな肉汁がほとばしるように溢れ出た。その感動にはただただ言葉を失って、無意識に沸き上がる笑顔でもう首を横に振るしかない。
口の中の肉を飲み込むと、その余韻に浸る暇もなく、今度はクリスが注いでくれた、これまた彼のとっておきの赤ワインを舌の上で転がした。
ターキーに赤ワインなんて、今までは考えもしなかった。確か学生のときに、ワインは肉と同じ色の物を会わせる方がいいと習ったような記憶がある。
しかし、朝からコルクを抜いて空気と馴染ませていたという程に癖のあるその赤ワイン、程よいボディーで少しだけ樽の香りがする。一口含むと、その液体は舌の上でサラサラとほどけ、まったりと口の中に絡み付いていた肉汁を洗い流しながら咽の奥に消えて行った。世界中の美味しい物を一人占めしているような贅沢な気分に言葉も無い。
それからはもう、ただただ味への感動に酔いしれながら、面倒臭い英語の会話などはそっちのけにしてガツガツと食べ続けた。そんな食べっぷりに感心して、テーブルを囲む家族の皆が次々に、『これも試してみろ』と私の前にお皿を突き出して来る。
クリスが横でその突き出された大皿から、少しづつ料理を私のお皿に移してくれる。
アメリカ人の男性には、こういったパーティーの場で連れの女性にサーブをする習慣を持つ人が結構いる。まあこれも人各々の育ち方や考え方次第で、全部が全部というわけではないのだけれど。
これってしかし、何だか女性がする日本のお酌の習慣に似ているような気がしないでもない。ちなみにこちらでは、ワインを注ぐのも男性の役目。
慣れというのは恐ろしいもので、最初は少し抵抗があったこの習慣も、今ではクリスと食事をする時には、女性が自分からぬっとテーブルのお皿に手を伸ばしたりするのは何だかお行儀の悪い事のように思えて来た。
そしてこれも最近では、実は結構気に入っていたりする。
ご馳走してくれる彼に女性として、きちんとエスコートされている自分を感じる。
‥まあそんな難しい事で理屈をこねるのは後回し。
今はとにかく、目の前に次々と盛られる美味しい物たちを、口に運ぶのに大忙し。