結局殆ど眠れないまま、太陽が昇って部屋の中が薄明るくなって来ると、重い頭でベッドから起き出し、ノロノロと帰り支度に取り掛かった。
朝食の席では、お猿をとても気にいった様子のお母さんから、もう一泊泊まっていったらどうかと強く誘われた。
『今度はいつ来るの?』
そう言って何度も聞いて来る真直ぐな瞳。
『これではまるで、私がクレイグの彼女か何かで彼のご両親を訪ねた様子ではないか。いったい彼は今回の訪問のことを、ご両親に何と告げていたのだろう?』
自意識の過剰さも手伝って、また胸に嫌な思いが走った。
しかしそんな思いの一方で、小さな苛つきが私を叱る。
初めて会ったお猿と私をこんなに優しい瞳で包み込んでくれたクレイグのお父さんとお母さん。
『皆、あったかでいい人たちばかりなのだ。私の方が、まだ精神的にバタバタピリピリしていて、それを素直に受け入れる準備が整っていない。』
車庫の軒先きで荷物をトラックに積み終えると、見送りに出て来てくれた老夫婦と、最後にギュッとハグを交わした。
何だかとても疲れていた‥。
帰りのフリーウエイでは、もうひっきり無しに隣から話し掛けて来る英語の言葉もあまり耳に入って来なかった。とにかく早く解放されて、お猿と二人になりたかった。
クレイグの家でカーメルから運んで来た荷物を解き終えてアパートメントまで帰ってくると、荷物を運ぶのを手伝うと言う彼の申し出を丁寧に断り、大きなカーシートと旅行鞄を両腕に抱え、その上にお猿の手を引きながら、どうにかこうにかエレベーターに乗り込んだ。
エレベーターが動き出して、またお猿と二人、その見慣れた小さな空間の中で息を吸い込んだとき、それまでピリピリしていた神経がほぐれて行くのを感じた。
「ただいま!」
部屋のドアを開けながら、お腹の底からほっとした。
そこでは、カーメルの豪華さからは程遠い、日々の生活に馴染んだ家具たちが、『お帰り』と私達の帰りを待っていてくれた。
ヨチヨチ、お猿がぎこちない動きで部屋の中に駆け込んで行く。『自分の家』に帰って来たのが分かるのか、そこでニッコリ嬉しそうに笑うと、早速、玩具箱からお気に入りのトラックを引っ張りだして、それにまたがり遊び始めた。そんな彼女を眺めながら、荷物を解くのは後回しにして、私はソファに身体を投げ出した。
無邪気に遊ぶお猿の顔を見ていると、再来月からクレイグの家で始まる生活に大きな不安が沸き上がる。
小さなお猿を連れた、全くの赤の他人との共同生活のスタート。しかも、その相手というのは男である。ああ‥。何だかこのおまけの『大きな一つ』には、考えれば考える程頭が禿げて来るようだ。
まあしかし、そんな不安に見悶えしながらも、『全ては考え過ぎなのかもしれない』と後ろから背中を押し出す自分がいる。
今ここで立ち止まって考え込んだ所で、何が変わるわけでもない。
とにかく前に進まなければ、時間のドアの向こうにある世界を手に掴む事は出来ない。
出来る限りの逃げ道は用意しながら、ゆっくりとでも前に進める足は止めずにいよう。
そうすれば、きっとそこから何かが見えてくる。
新しい年が明けた。
アメリカの『ニュー・イヤーズ・デー』
日本のように、『元旦』『お正月』といった厳かな響きはそこには無い。
おせち料理も無し。
お年始回りも無し。お年玉も、もちろん無し。
ハローウインにサンクスギビング、クリスマス。アメリカ人は一年のフィナーレをお祭り騒ぎで最高に盛り上げた後、新しい年の始まりを、また新たな舞台の幕開けとして静かにゆっくり過ごす。
まあ、基本的にお祭り大好きのアメリカ人、街ではそれなりに大小イベントは開かれて、中でも、毎年ニューヨークで繰り広げられる恒例のニューイヤーズ・パレードは、テレビでアメリカ全土に中継される。
しかしそれでも日本にいた頃、大晦日からこの『お正月』の三賀日にかけて、紅白だ年賀状だ初日の出だパーティーだなどと盛り上がりまくっていた私にとって、こちらで迎えるこんなひっそりとした新年の幕開けには、何か大切な忘れ物をして入り口のドアを開けているような気分がしてしまう。
さて、希望に満ちた『新年』の響きとは裏腹に、言わずもがな今の私の生活の中には、『引っ越し』という大きな課題がどっしり横たわり続けている。アパートメントにも退去通知を出して引っ越しへのカウントダウンがスタートしてしまった今、もう後戻りはできない。最近ではやけに、クレイグの態度に親密性が増して来た。
色んな葛藤にひとり悶々とする日々に堪り兼ねて、ここ暫く、それとなく周りの友人たちにも話を聞いてみた。しかし、返って来る答えは男女どれも似たようなもので、『別に条件良ければいいんじゃない?男でも女でも。結局はその人間次第だしね。』
こうした、全く他人の異性と部屋をシェアするという感覚。日本ではまだ、普通の生活を送る限り、あまり馴染みのない物であるが、このアメリカでは、女性が強いからなのか人々が合理性を優先して生きているからなのか、そう取り立てて珍しい物でもないらしい。‥うーん。
確かに『条件』だけで言うと、このクレイグの話、今の私が見つけられる物件としては夢のような話だ。
ダウンタウンまでバス一本で一時間以内。その上、庭付き一件屋の間借りの家賃が月$600でOK。
何よりも、まだ正式な永住権もおりていないシングルマムの私に、そううるさい条件を付ける事もなく部屋を貸してくれるなんて申し出は、他ではそうそうお目にかかれる物ではない。
それに加えて、彼の子供好きな点も非常に有り難い。
『二十年の結婚生活を通して亡くなったワイフとの間には、一度も子供は出来なかったんだ。』
以前お猿と戯れながら、クレイグがそんな事を言っていた。そして、ぽっかり空いた心の穴を埋めるように、彼はお猿の事をとてもよく可愛がってくれる。
今までこのルームメイト探しでは、いつも小さなベビーの事がネックになって来た。
いくら、普段アメリカ人がベビーに優しいからといって、実際自分の生活の中に他人のベビーが入って来るという事になると、途端に話は変わってしまう。
クレイグのように、むしろ積極的にシングルマムを受け入れてくれようなんて人は、それ程多くないのが現実だ。
近くに身内もない外国暮しのシングルマムにとって、やはり何かあった時、ベビーの事を相談できる人が側にいるのといないのとでは精神的にも雲泥の差がある。
そういえば、以前、夜中にお猿が高い熱を出してパニックに陥った事があった。
救急車を呼ぼうにも無料では来てくれないこのアメリカ、考えなしに呼んでしまうと、後から目が飛び出る程の請求書が送られて来る。
自分でタクシーを拾って病院に連れて行こうにも、ごろつきや売春婦たちがうろつく夜中のダウンタウンに、女性一人で小さなベビーを抱いて外に出て行こうなんてことは、全く自殺行為である。
育児もまだド素人ママの状態で気ばかりが焦る中、お猿はフーフー真っ赤な顔で苦しみ続け、今にもそのか細い息が止まってしまいそうな恐怖に体が震えて来る。
もう、涙が止まらない程にパニくりながらとにかく必死で戸棚を掻き回していると、そこにベビー用のタイルノールが残っているのを見つけた。
箱には熱冷ましの成分も入っていると書いてある。
祈る気持ちで、急いでスポイドにクスリを取って小さな口に流し込んだ。
それからしばらくすると、彼女の熱は嘘のように下がった。
恐怖の想い出が、今でも時折頭を横切る。
別に、こう書いてクレイグの事を、生活の中で当てにしようなどと思ってるわけではないのだけれど、しかし、何を具体的にする事はなくても、このアメリカ生活をよく知る人が同居人として自分の生活の中にいてくれるというのは、何となく心強いものだと思う。
そんな事を考えて行くと、確かにこの『条件』の中には無視の出来ないありがたい要素が沢山ある。
しかし、これほどいい条件に対しても、この『人間次第』の部分になると、どうしても後から頭を擡げる疑問たちを打ち消す事が出来ない。
クレイグも一応『アメリカ人にしては』、一貫した誠実な態度で話もよく聞いてくれる。
基本的に、『直接自分が深くプライベートに関わって行く』といった前提が無ければ、彼も十分『いい人』の部類に入っているのだと思う。
だが、人の距離というのは近くなる程、そこから相手に対する色んな葛藤が生まれて来る。同時にそれが、お互いの関係のあり方に感情的な混乱をもたらし始めることなるのではないだろうか。
カーメルで過ごした時間以来、クレイグの態度にも何となく馴れ馴れしさが増して来た。生活に対する口出しも始まり『これからの共同生活の中ではヤレ男友だちは絶対連れて来てはダメだ』とか『外泊する時には連絡を入れろ』だとか‥。これでは単なるハウスメートを越えた規制が出て来たような感がしないでもない。
それに加えて実用的な所でも、度々疑問が顔を出す。
例えば光熱費シェアの件。
少し前に、カリフォルニアでは電気の料金が上がってしまった。
寒がりの私にとって、このサンフランシスコの生活では、パンツをはくのと同じくらいにヒーターの存在は欠かせない。しかしクレイグの生活スタイルの中では、そのヒーターにかかる電気代さえとても気にくわない物らしい。会う度にそれを持ち出されては『引っ越して来てもなるべくヒーターはつけちゃダメ』などとチクチク言われる始末である。
人様の『ポリシー』についてどうこう言うつもりはないのだけれど、基本的に彼は、お金にとてもシビアな男。
外ではイタリア仕立てのスーツを着こみ、メルセデスなんて運転しているわりに、いつも細かい事を言って来る。
誰かと生活を分け合うのなら、お互いの都合に多少なりとも目を瞑る部分があるというのは理解出来る。しかし、今一つ私の中でしっくり来てくれないこの疑問は、いったい何なのだろう?
往生際の悪さを笑われるのを覚悟で言えば、こうした疑問と葛藤に耐えきれなくなって、正直また、他を当たり直す事を考えた。
実際、ジャパンタウンのスーパーの掲示板に足を運んだりもしたのだけれど、しかし、今まで長いことリサーチを続けてずっとこれという物が無かったものが、今直ぐここで次の何かが見つかるなんて‥。そんな魔法は残念ながら、ハリウッド映画のクライマックスシーンの中にしか存在していないようである。
そうしている間にもクレイグからは、毎日のように長ーいラブレターもどきのメールが送られて来る。そしてそれを無視していると、今度は文面が厭味や皮肉に変わって来る。
今日は久し振りに、あや子さんから電話をもらった。
彼女はもうサンフランシスコ生活八年目の、ベテランシングルマムである。
「そりゃあねえ。あんた、今でこそ、ここの生活にもすっかり馴染んじゃって平和に暮しているけどねえ。やっぱり過去の時間の中には、引っ越しのトラブルなんて、そりゃあ切って売る程あったわよ。」
カラカラ笑うたくましい声が、受話器の向こうから響いて来る。
「誰かと部屋をシェアしようなんて思ってるんだったら、やっぱり多少の問題は目をつむらなきゃあねえ。私だって、昔ヒスパニックでシングルマムのルームメイトを見つけてムーブインしたのはいいけれど、次の日からごっそり、鞄から色んな物が消え始めちゃったの。結局それから二週間も経たずに、小さなベビー連れて夜逃げ同然、部屋を移ったりした事もあったわねえ。」
そんなとんでもない体験でさえも笑い飛ばせる彼女の軌跡に強さを感じる。
何年か先には、私もこうして笑いながら、今の状況を誰かに話していたりするのだろうか?
「まあね、色んな事は起こって来るけど、今こうして平和に生きてるって事がなによりの幸せな結果だって言えるんじゃないの。あんたもどうにかなるもんよ。」
明るい声に励まされ、少し勇気も湧いて来た。
しかし最後に『御愁傷さま』とでも言うように、あや子さんがぽつりと呟いた。
「でも、生理的に受け付けない人と一緒に暮らすなんて、やっぱりこれから大変だよねえ。」
重い気持ちに引き戻される。
受話器を置くと、また薄暗い空間に一人になった。
後悔とも不安ともつかない恐怖が、グルグル頭の中を回り始める。
今ここにある巨大な不安も、実際に引っ越しをして新しい生活が始まれば、『取越苦労』と笑える時がやって来たりもするのだろうか?
いったい自分はどこに向かっているのだろう‥。