夕方、またお猿をサンフランシスコに迎えに行く時間には、ティブロンのフェリー乗り場はその表情をガラリと変えている。
午後の船着き場には、フェリーに乗る人たちに交じって、サンフランシスコから帰って来る家族を出迎える人たちも集まって来る。
少し早めに仕事から帰って来たパパが船を降りてくるのを見つけるや否や、やんちゃなチビたちが一斉にゲートに駆け寄って行く。
またこの子供たちというのが、まるでもう、すっぽりそのまま子供向けのファッション誌から抜け出たように可愛いらしい。
イッチョ前にストリート風に着崩たダボダボのスエットシャツからは、小鹿のように弾ける細長い手足がニョッキリ付き出している。クリクリふわふわの金色の巻き毛の下からのぞく天使のような悪戯盛りの瞳には、つい目が吸い寄せられて行く。
体をよじ登る子供たちにモミクチャにされながら、パパとママは、柔らかな午後の光の中で百年分のハグを交わす。
うーん‥、これはもうまるで、完璧な程に美しいファミリー映画のワンシーンを見ているよう。
‥しかしここで一つ、私の胸には大きな疑問がわき起こる。
こんなロマンティックな風景の中で『何を無粋な』と叱られるのを覚悟で言ってしまうと、はたして、この非現実な程に洗練されたママたちの美しさはいったいどこから来るのだろう?
毎日、こんなにヤンチャな子供たちに『揉まれて』いるはずであるのにも関わらず、お肌はツルツル、しかもそのスラッと白くて細い腕には、まるで『一度もベビーなど抱いた事はありませんことよ。オッホッホ!』なんて余裕で微笑んでいるかのように、どこにも余分な筋肉など付いていない。
自慢じゃあないが私など、お猿を産んでからというものは、毎日米袋といい勝負をする重たいヤツを腕に持ち運び、夜中は夜中で何度もミルクに起こされて、暫くは寝るのも忘れて女を捨てきったような生活を送っていた。
おまけに小さな脳みその成長につれて、今度はそれに、なんとも独創的な悪戯が加わってくる。
そんな毎日の忍耐修行のお陰様で、今では額にもうっすらと皺が一本刻まれたような始末である。
似たような状況の中で、このブートキャンプ‥じゃくて、育児の苦労を潜り抜けて来た筈の彼女達、いったいどこに、そんな瑞々しさが沸いて来る余裕の源があったりするのだろう?
とまあ、最初は七不思議だったその謎も、しばらくティブロンでの生活を送る間にその手の内が見えて来た。
ここティブロンでは頻繁に、ヒスパニックの女性たちが、何だか『どう見てもそういう遺伝は不思議だぞ』状態の明るいブロンドの子供たちを連れて歩いているのを見かける。
最初のうちは単純に、『いやにティブロンという場所は、昼間はヒスパニックの主婦が多いなあ』なんて思っていた。
『白人の女性は皆キャリア思考を持って、昼間はシティーへ働きに行ってしまうのだろう。やはりヒスパニックの女性たちの方が、キャリアよりも家族の繋がりを大切にしているものなのかしら?そんな所にも人種の差が出て面白い物だなあ。』
‥なんて、自分なりに勝手な解釈を作り上げて納得していた。
しかし、程なくそれは、全く的外れな勘違いであるということに気がついた。
実はこの子供連れのヒスパニックの女性達、何を隠そうその実体は、お金持ちのお子様のお世話をする『ナニー』だったのである。
お陰様で全ての謎は、水戸黄門の印籠の前に落着した。。
あのフェリー乗り場で見るママたちの美しさを支えていた秘密兵器は、こういったナニーたちの存在だった!
日頃のワイルドなチビたちの世話はナニーやメイドたちに任せ、自身はエリート夫の社交の華を勤めるべく、アートや文化を慈しみフィットネスに励む毎日。
‥失礼しました。
まだまだ世界は自分の知らないことで満ちている。
自分の顔を鏡に映してみる。
そこには、今まで私が歩いた時間のすべてが描き出されているような気がする。
あり余るお金に囲まれて、美味しい物だけを食べながら優雅に生きて行けることに憧れたりもするけれど、私は私、お猿のたった一人の母親として、毎日彼女が繰り広げていく様々な表情を、ひとつひとつ、一緒にこの手に感じていける距離というのが、自分にとっての丁度いい幸せ具合だと思う。
十人十色。自分の世界は、自分が一番心地よく過ごせる色で塗って行こう。
そうして時間を広げていく限り、たとえちっぽけな世界でも、その中では決して自分を見失って迷子になったりする事はない。
毎日海を渡る。
全ての生命が海から産まれて来たように、今、私の時間もリセットされて、このティブロンの深い海からまた新しい枝葉がのびて行けばいい。
朝一番、電話のベルで目が覚めた。
まだ夢の中に片足を残した状態のまま受話器を取ると、痺れた頭に張り切ったクリスの声が響いて来た。
「ハッピー・バレンタインズ・デイ、スイートハート!‥ごめん、起こした?」
突然飛び込んで来たテンションの高い声に不意をつかれ、頭の中でノロノロと言葉が纏まらない。そんな私の返事など待ってる暇もないといった風に、クリスがせっかちに言葉を続けて来る。
「今、クリニックに向かう車の中で、あんまりゆっくり話せないんだ。でも、今日は一日病院に入ってバタバタしそうだから、電話かけられる時に早めに君をつかまえておこうと思ってね。今日夕方会える?バレンタインのお祝をしようよ。」
‥バレンタインズ・デイ?
ああそう言えば、今日はもう二月の十四日。
最近の目紛しい生活の中では、そんな物を気にする事さえ忘れていた。
クリスもここ二、三日、難しい急患が入って病院に缶詰めが続いているとこぼしていた。
でも、ちゃんと気にしていてくれたんだ!
頭の中にかかった霧が一気に晴れて行く。
「今日は絶対!誰が何と言っても病院を五時に抜けて来る。どこかでいいワインでも開けて美味しい物を食べよう。」
ちょっと芝居がかった言い回しで、クリスが言葉を続けている。こんなに朝早くから、よくもそんなに飛ばしていられるものだ。
「いいよそんなに頑張らなくっても。最近あんまり寝てないんでしょう?今日は私がホテルの部屋で何か用意する。お猿もいるし、レストランなんかに出て行くよりはお互いリラックス出来ていいんじゃない?」
「そう?‥うん、そう言ってくれると有り難いな。六時にはティブロンまで戻って来れると思う。今晩はペイジャーもスイッチをオフ!君とゆっくり時間を過ごすんだ。あ、今ゴールデンゲート・ブリッジ越える所。電波悪くなるからこれで切るね。」
子供のように浮き浮きとした声でせっかちに用件を伝え終わると、クリスはさっさと電話を切った。‥まったくいつもながら忙しないヤツ。
時計を見ると、そろそろ七時のアラームが鳴り響く時間になっていた。
『バレンタイン・デーなんて気にしていてくれたんだ。』
ひとりでに緩んでくる頬を、両側から指で軽くつねる。
普段のクリスの殺人的なスケジュールを考えると、これはもう奇跡に近いような気がした。
この恋人たちの日『バレンタインズ・デイ』、欧米では日本のそれとは反対に、男性が女性に愛を告げる日となっている。サンフランシスコのキャンディー・ショップ、今日はどこも、朝から男性陣がつくる長い列で一杯に混合っている。
夕方、日が暮れ始めた頃、お猿をピックアップしてファイナンシャル・ディストリクトのフェリー乗り場まで戻って来ると、いつもは静かなその桟橋が、今日はまるでお花畑にいるように沢山の花束で埋まっていた。
フェリーを待って列をつくる男性たちの腕の中には、大きな花束やチョコレートのお包みが大切そうに抱えられている。
海を渡って家に帰ると、それぞれにロマンティックなバレンタイン・ディナーが待っているのかな?
色とりどりに輝くイルミネーションのライトが鮮やかに、暗い海の上にベイブリッジを浮かび上がらせている。
建ち並ぶ高層ビルの窓々には無数の琥珀色の光の粒がちりばめられ、ほうっとため息を誘っている。
サンフランシスコの街中が煌めきながら、恋人たちの優しい時間を祝福してくれている。
フェリーがティブロンの船着き場に着く頃には、もうすっかり日は落ちていた。
下船する乗客の流れに加わって桟橋に降り立つと、薄暗いゲートの片隅に、クリスの立っている影が見えた。
ドキンと心臓が強くうつ。
彼の腕には、桟橋から漏れるオレンジの灯に照らされて、街中のフラワーショップから買い占めて来たような巨大な薔薇の花束がずっしりと抱えられていた。
普段ならば、ちょっと近付くのも躊躇われるような、このドラマティック過ぎる光景。
しかし、今日一日、サンフランシスコ中の男性達の花とキャンディーにかける情熱に当てられてしまった後では、こんな風に私を待っていてくれた存在にたまらない愛おしさを感じた。
込み上げて来る照れ笑いを押さえながら、ゆっくりと桟橋を渡って行く。そしてゲートの前まで来た所で、そのまま磁石に吸い付くようにクリスの体を抱きしめた。
'happy valentain's day, sweetheart.'
むせ返る薔薇の匂いに息が詰まる‥。
「マミー‥。セ‥チャ、ウキャキャ!」
‥と、そんなロマンティックな気分も束の間、今までストローラーの中で静かに座っていたお猿がグイッとクリスの足を引っ張った。突然聞こえた奇妙な音に、キスを交わしながら同時に吹き出してしまう。
二人一緒に見下ろされた顔を見て、お猿は嬉しそうに小さな腕をバタつかせると、後は満足したように、言葉にならない音で何かおしゃべりを始めた。
クリスの瞳が優しく笑う。
'this is for you. young lady.'
ロマンティックにそう言って、花束から薔薇を一本抜き取ると、それをお猿の手に渡した。
'and this is for you, mommy'
気軽な調子でぽんと花束を私の腕に渡すと、クリスはストローラーのハンドルを握りホテルに向かって歩きだした。
花束は驚く程重かった。
すっかり日も落ちた船着き場。
フェリーが最後の乗客を乗せて桟橋を離れて行く。
海岸線は静寂に包まれ、ただ、暗い海に張り出したイタリアンレストランのデッキから流れるざわめきが、夜の港に気だるい活気を漂わせている。
海から吹く風はまだ冷たい。横を歩くクリスの腕にぎゅっと頬を埋める。そうして大きな胸の柔らかな温もりと腕いっぱいの薔薇の香りに包まれながら、ゆっくりゆっくりホテルに向かって歩いて行った。
ホテルに着いて部屋のドアを開けると、今度は私が幸せのピックリをあげる番。
「ああ、いい匂いだ。」
クリスが鼻をヒクヒクさせながらドアを閉める。
部屋の中は、今日一日の私の奮闘のにおいで満ちている。お猿のお迎えにサンフランシスコへ向かう前にセットを済ませたテーブルが、美味しい物で埋まって行く。
コーンとマッシュルーム入りのトマトソースでコトコト煮込んだ素晴らしく柔らかなチキンのお皿の横には、野菜をたっぷり加えたカントリー風シチューが湯気をたてる。
そんな洋風料理の隙間には、アスパラをサラッとお醤油でソテーしてカツブシをふりかけた日本の一皿。
チーズは二、三種取り混ぜて、色合いのアクセントに山盛りのフルーツを真ん中に置いて、クリス持参のシャンパンのコルクをポンと空けると、早速ディナーがスタートした。
人工的な明りは消して、部屋中をキャンドルの灯でいっぱいにする。
薔薇の香りに包まれた空間に流れる静かなシャンソン。
柔らかな会話。クリスとお猿の笑い声‥。
この優しい時間が永遠に続けばいい。
「マリーンの方に移る気はないの?」
ワインのボトルも終わりに近づき、丁度空っぽになったお皿にお代わりのチキンをサーブしようと席を立ったのと同時に、すっかりリラックスした様子のクリスがそんな事を聞いて来た。
「僕達の付き合いって、君がティブロンに来てから随分楽になったような気がするんだ。あんまり現実的な話で悪いんだけど、やっぱり、ゴールデンゲート・ブリッジ越えたダウンタウンで会うのとマリーンで会うのとじゃあ気分的にすごく違うよね。」
「‥‥‥。」
唐突な話の切り出しに、返す言葉が直ぐに出ない。そのまま大鍋のチキンを突きながら少し言葉を考えてみた。
マリーンで暮らす。
正直、今までの生活の中で、そんな事を考えてみる機会は全くなかった。
漠然と『マリーンはいい所だなあ』と思う事はあっても、実際自分がそこに住むということになると、これはまた全然別の話だ。
夢を見るのは簡単だけど、現実問題、このティブロンやそのお隣のミル・バレー、もう超高級住宅地のエリアになっていて、庶民には逆立ちしても手は出ない。‥と思う。
しかしクリスの言うことも一理ある。
『恋に距離は関係ない』なんていうのは、時間とエナジーを持て余していた学生時代のファンタシー。実際社会の中に組み込まれれば、それなりに色んな制約が産まれて来る。
ダウンタウンにいる頃は、忙しいスケジュールの隙間を縫うようにして、ゆっくり二人で時間を持てるのも月に何度かあればいいといった状態だった、しかしこのティブロンに来てからは、車で2、3分という距離が朝の早いクリスを安心させるのか、仕事の帰りに夜遅くでもちょくちょくホテルに立ち寄って、リラックスした時間を過ごして行くようになった。
シフトの具合で時間が合えば、朝、船着き場に車を置いて一緒にフェリーでサンフランシスコまで渡る。そしてまた帰りはフェリーステーションで待ち合わせをして、一緒にティブロンまで帰って来る。
今まで二人の間にはなかった新しい時間の接点たちが、自然に顔をのぞかせて来た。
それに加えて、今、私の中にもマリーンに対する憧れが少しづつ膨らみつつある。
いつかはこの時間を忘れた美しい土地で、穏やかに海を見ながら暮らせたらどんなに素敵なことだろう。
マリーンの中でも、一番サンフランシスコ寄りのサルサリートの方に場所を捜せば、まだ可能性も全くゼロではないような気がする。
サルサリートは若いアーティストたちが集まる街。
海岸沿いのストリートには沢山のギャラリーが顔を並べ、週末になると、ちょくちょくアート・フェスティバルなども開かれていたりする。
あんまりお金を持たないアーティストたちでも、船着き場の一角にボートを改造した家を造り、またそれらが集まって独特のクリエイティブなアーティスト集落を形成していたりする。
「ちょっと考えてみる。今すぐってわけにはいかないけど。ビザの手続きとかコートだとかで、まだダウンタウンにいた方が便利な事が色々あるからね。でも考えてみるよ。マリーンに来るなら車の運転も練習しなきゃあ。」
私の言葉を聞いて、大きく切ったチキンの一切れをモングと口に放り込むと、クリスは嬉しそうにニッコリ笑った。