程なく、メニュー会議にも一段落がついてランチの時間が始まった。
テーブルの上には所狭しと、私が見こともないーお母さんが言われるところのー日本料理が並んでいる。
楽しい食事が始まった。
‥っと言いたいところだが、実はいざ、その上品にセットされたテーブルを前にしてしまうと、立ち上がってその場を逃げ出したい衝動に駆られた。
こんなゴージャスな空間で、それも、今日初めて顔を合わせた人たちと囲む畏まったテーブル。正直なところ、それは食事を楽しむというよりも、まるで一流ホテルでテーブルマナーの講習か何かを無理矢理に受けさせられてるような心境だった。
お上品にセットされた銀のシルバーウエアたちは、ツンとしたお鼻を天に向けている。目の前に並んだ『珍しい日本料理』たちも、まるでデパートの食品売り場のディスプレイを見ているようで、味など噛み締めている余裕はない。
今日はお猿を連れて来て、本当に正解だった。
まだ小さくて何も分かってはいない彼女、緊張で固まる母親を横目に、さっきから一応、『ちょっと何だか違うぞ』モードに入ってはいるものの、極めて平常心を崩すことなく彼女流の素晴らしくマイペースなテーブルマナーを披露しながら、ぐわしと目の前にある食べ物を鷲掴みにして楽しそうにお口へ運んでいる。
彼女が何かする度に、お母さんの気がそちらへ向く。
お猿の事を『スイート・ハート』と優しく呼んで、とろけるような瞳で次々に美味しい物を彼女のお皿に入れてくれる。
お猿が笑うと、お母さんもお父さんも一緒になって微笑む。
優しい空気に緊張の糸が緩んでいく。
そんな笑顔をながめていると、ふと、去年、孫の顔を見に日本からやって来た父と母の顔が浮かんだ。
まだちっぽけでムシのようだったお猿に、未だかつて見た事もないデレデレの大親馬鹿ぶりを発揮していた彼らの姿が目の前の老夫婦にだぶって来る。
今の私の状況といえば、グリンカードの申請手続きの真只中。移民局の面接すらもまだいつになるのかは分からず、とにかくカードがおりるまではアメリカを出る事は許されない。そんな拘束中の身では、両親にとって初孫で、たった一人の孫である彼女の成長も、遠路はるばる、彼らがサンフランシスコにやって来る時にしか見せてあげる事が出来ない。
きゅっと胃の底が絞られて、心の中で小さく『ごめんなさい』と呟いた。
さて、そうしてどうにかランチの時間を切り抜けた‥じゃなくて、終えた後は、お猿を連れて、海岸線を散歩してみる事にした。
海に面したこの巨大なリビングルームからは、中庭を抜けて、直接海岸へ出て行けるようになっている。
ワシワシと庭を覆い、そこら中にびっしりと生えているドクダミのようなそうでないような草を踏みながら砂浜まで出て来ると、空気の色と匂いが変わった。
ザザーン‥ザザーン‥
寄せては返す波の音をバックに、潮っぽい風が時折思い出したように、砂浜に咲く花たちの頭をそよがせて行く。
昔、古いカフェの壁にみたような、色褪せて、ほんの少しぼかしのフィルターのかかった優しい風景の中を、ヨチヨチ歩きのお猿の手を引きながらゆっくりゆっくり歩いて行く。
お猿はもうさっきから、目につく物全てが嬉しいようだ。
砂浜に落ちた流木の欠片を拾っては笑い、自分の背の高さ程もある黄色い花の頭を覗いてはまた笑う。
時折空気のリズムを変えるように強く吹く潮風の動きにも、またその小さな手をパチパチたたいてにっこりと笑う。
砂浜をしばらく歩いて行くと、海岸に添う唐草の茂みに、細い入り口があるのを見つけた。先はどうやら向こうの崖に続いている。
ちょっとそこで立ち止まり、お猿と顔を見合わせた後、そこからは少し冒険をしてその横道に進路を変えてみる事にした。
蔓が絡まった小道の入り口を、かき分けるようにゆっくり中に入って行く。
遠くまで見渡しのきく砂浜から離れ、その頼り無く続く細い細い進路を進んで行くに従って、まるで、柔らかく色褪せた若草色の迷路の中に迷い込んだ錯覚に陥った。
左右、腰の高さまでびっしりと茂る蔓の間からは、突然ピーターラビットが飛び出して来てもおかしくはない。淡いパステルに色づけされた小さな花たちが、こんもりとした蔓草のベッドを飾っている。
絵本のページをめくるようにどこまでも優しく続いて行く風景の中を、お猿の小さな手を引きながら夢中で前に進み続けた。
茂みを抜けると、今度は地球のテッペンに立つような開けた丘の上に出た。
そこから小道は、野の草で覆われたなだらかな崖縁に沿って続いて行く。
崖の足元に目を落とすと、思わずハッと息を呑んだ。
そこには信じられぬ程に澄み渡った湖が、まるで神の手で描かれた神聖な絵画を見せるように、そこにあるすべての物たちを逆さまに映し出しながら悠然と横たわっていた。
‥とその時、
「ほら、あそこを見てごらん。」
突然後ろから聞こえた太い声に、幻想のシャボンが弾けて消えた。
私も相当に失礼なヤツだけれど、この素敵な散歩の道中、クレイグが一緒について来ているなんて事は、もうすっかり頭の中から消え去っていた。
何だか一瞬にして夢の世界から現実の中にスポンと掴み戻された気分だ。
本来なら、ランチの後の散歩の時間は、お猿と二人っきりでこのどこまでも美しい海岸線を歩きたかった。しかし、そこで当然のようにしてついて来るクレイグを断わるよい言い訳も見つけられないまま、結局こうして、小石の入った靴を履いて歩き続けなければいけないような散歩の時間が始まったのだった。
ガックリと興醒めした思いで、彼が指差す湖の向こう岸に目をやった。そこには乗馬柵のついたグラウンドを備えた大きなコテージ風の建物が、静かに湖畔に影を落としてたたずんでいるのが見えた。
「あの建物は、クリント・イーストウッドの家なんだ。元はホテルか何かだったんだけど、彼が買い取って自分の家に改造したんだそうだよ。彼はここの市長もやってるからね。」
スクリーンで見る大スターの生活が、ここでは『ご近所さん』のお話になる世界。まだまだこの世の中は、私の知らないことで満ちている。
思いがけない発見に、落ち込んだ気分もやや持ち直し、しばらくそこで湖の風景を楽しんだ後は、またそこから道を折り返し、迷路を抜けてゆっくりと来た海岸線を戻って行った。
海辺の家が見えて来ると、道中、子供のように砂の上の平たい石を拾っては波の中に飛び石させて遊んでいたクレイグが、
「これからダウンタウンまで出てみようよ。カーメルまで来て街のギャラリーを見ないで帰るなんて事はないだろ?丁度ママから頼まれた小包もあることだしね。」
と、既に自分の中にあったプランを、さも『今、ふいに思い付いた』といったような素振りで誘って来た。
まあ、これには私も全面的に大賛成。
‥この見境のない現金さが、今の私の経緯のすべてを説明してくれているような気がするのは否めない。
海岸線を離れると、車は大きな家が悠然と並ぶ閑静な住宅街の中に入って行った。
のびのびと枝を伸ばした緑の樹々に覆われた美しいヨーロッパ調の家々が,童話の中に迷い込んだような優しい風景を作っている。
丁寧に手入れをされた庭の中には、天使のような子供たちの笑顔がのぞいている。
ドライブが街のメインストリートに近付くに従って、のどかな通りも少しづつ華やぎを増して来た。
通りの両側には、ぽってりとカラフルなペンキで塗られたアメリカの昔情緒あふれる店たちが顔を並べ始め、石畳の歩道には、ウインドウショッピングを楽しむカップルや家族連れ、行き交う人々の幸福な笑顔が満ちてくる。
サラサラと心地よい風が吹き抜ける気取らない店先のベンチでのんびり読書にふける人、街路樹が落とす柔らかな木陰で大きなナップサックを下ろしてひと休みする観光客のカップル、トロンとした目で買い物から出て来るご主人を待っている犬たち。ゆっくり流れる時間の中で、皆が思い思いに自分たちの時を過ごしている。
玩具のような郵便局にクレイグの『口実』が詰まった小包を出した後は、私達もお猿をのせたストローラーを押しながら、ゆっくりと歩道を行く人たちの流れに加わった。
『芸術家の街カーメル』という名を誇るように、ストリートには軒を列ねて様々な種類のギャラリーが並んでいた。
その一つ一つのドアの中に足を踏み入れるたび、まるでウサギの後を追い掛けて『不思議の国』の穴の中に迷い込んだ錯覚を見る。
美しい蝶の羽根をした風車が回っている。太陽の代わりに光り輝きながら空に浮かんだ巨大な玉子の殻の修復に、神話の中の人々が木の足場を組み働いている。
薔薇の花びらの中には小さな妖精が眠り、大きなマザークロックの文字盤からは、沢山のスライド映像をバックにして過去と未来に繋がる階段が伸びている。
神から人間に与えられた一番貴重な財産という物があるのだとしたら、それは『想像力』に違いない。この空間で確信する。
‥とその時、
「ハニー」
カウンターパンチを食らわすように、『また』幻想の背後から、太い声が土足で割り込んで来た。
しかも『ハニー』‥‥?‥??????
言わせてもらうが今の所、この私をハニーと呼ぶのはクリスただ一人だけだ。
一体全体何がどうした事なのだろう?
疑惑で顔を引き攣らせながら、恐る恐る、隣に立ったクレイグの顔に目を向けてみた。
「ハニー、この絵はうちのリビングの壁にピッタリだと思わないかい?
来月が君の誕生日だろう?
そこでどうだろう。この、$12、000の絵をそのお祝にするってのは?」
「‥‥?」
呆気にとられてジーッと顔を見つめる私に、彼はニヤリと笑ってウインクをした。
「冗談だよ!冗談!君があんまり真剣に絵を見つめているもんだから、ちょっと辛かってみたくなっただけさ。」
そう笑いながらもクレイグの手は、私の腰に回っているじゃあないか!
次の瞬間、背中中の毛穴が総立ちになり、体の中にゾワゾワとした物が走り抜けた。
冗談の通じないヤツで申し訳ないが、これにはすっかり気分も動転してしまい、ギャラリーを出た後はもう周りの風景など目には入って来なかった。ただ、小さなベビー連れの彼と私が通りを行く人たちの目にどう映っているのかを考えると、一刻も早く、その場を離れたい思いに駆られた。
ランチと同じで、素敵だけれど味の分からない夕食が済んだ後は、飲みに出ようとしつこく誘って来るクレイグを断って草々に客間へ引き上げた。
熱いシャワーをさっと浴びると、その後はさっさとベッドにもぐり込んだ。
お猿は彼女なりに楽しい一日を満喫したのだろう。ベッドに入ると直ぐにストンと寝入ってしまった。そんな平和な彼女に対して、私はフカフカの布団の中で、なかなか眠りに落ちて行けない。
大窓から射し込む月の明かりが部屋の中を薄青く照らしている。
すぐ窓の外で響くうるさい程の潮騒。
ぼんやりと天井に目を移す。
そこでは、これから変わり行く生活を見つめる恐怖が無気味な黒い塊となって、目の前でジッと私の顔を睨んでいるような気がした。
生暖かい水滴が目の脇を伝って耳に入る。
頬に触れるスヤスヤとした小さな寝息に、また熱い雫が沸き上り、今度は次々にこぼれ出して止まらなくなった。